大音声


 鶏が朝鳴きをしなかったから、遅刻した。

 みぬきの声が電話口でそう告げた気がして、響也は耳を疑う。
「え〜と、お嬢ちゃん。もう一度言ってくれるかな?」
 意味がよくわからなくて…そんな風に続けると、そうですか。と素直な返事が携帯から聞こえてきた。
『じゃあ、もう一度言いますね。いっつも朝から大音声で、近所を騒がせている王泥喜さんの声が聞こえなかったんですよ。それで、みぬきは寝坊をしてしまったんですけど。あ、いつもはキチンと起きているんですが、昨日はビビルバーの追加公演なんかしてしまっちゃったもので、ちょっと寝るのが遅くなってしまって…。』
 中学生とはいえ、みぬきは女性だ。お喋りをし出すと止まらないという女性特有の体質は既に構築されているらしい。携帯を肩と顎の間に挟み書類に目を通していた響也はクスリと笑う。そして、やんわりと話しの腰を折ってやる。
「深夜の営業は、お嬢さんの年では違法…じゃなかったかい?」
『わわっ、そうでした。此処は聞かなかった事にしといて下さい、牙琉さん。』
「オーケー。お嬢ちゃんの頼みなら断れないな。…で?」
 きゃはと楽しそうな声を上げ、悪びれた様子もなくみぬきは話しを軌道に戻す。
『そうそう、それで王泥喜さんが朝来なくて、変だなぁと思って電話をしてみたら、風邪を引いて寝込んじゃってたんですよ。』
「おデコ君が風邪?」
 聞き返した響也に合わせて、みぬきが声を潜める。
『ここだけの話。何とかは風邪引かないのになぁって、パパが言ってました。』
 あはは。
 響也の乾いた笑いが、みぬきにも聞き取れたのだろう。ちょっと、酷いですよね。と言葉が続く。
 あの、元気が取り柄らしい弁護士くんが風邪で寝込んでいるらしい。響也は、ちらとスケジュールの書き込まれたボードを眺める。詰まった日程だが、調整すれば何とかなりそうだ。
「教えてくれてありがとう。僕も後で行ってみるよ。」
『わぁ、みぬきも学校が終わったら、行こうと思ってるんですよ。急いで帰って来ますから待って下さいね。』
 既に目的がすり替わってしまっているみぬきの電話はそこで切れ、響也は携帯から聞こえる、ツーツーという音を聞きながら、ふと息を吐いた。

「…連絡してくれればいいのに…。」

 それなりに、気心を許した友人(というか、恋人)だと思っていたのだけれど、おデコ君はそうではないらしい。寂しいと率直に思う。自分が思う程に、彼は自分を近くには感じていないのだ。遠慮しているのかもしれないが、困っているのに助力ひとつ求めてくれないのだから。

「クールな男だよね、おデコ君も。」 

 
 人肌程度に温もった布団が暑苦しい。
冷たい部分を探してゴロゴロと動いてはみるものの、所詮一人用の煎餅布団。そんな心地良い場所など残っていなかった。身体が妙に怠く、微熱でもあるのかも知れないと王泥喜は思った。ズキズキと痛む喉に手をやって、取りあえず上半身を起す。
「…ぁ…。」
 声を出そうと試みて、歯痒い痛みに断念する。
『絶対に風邪ですよ、王泥喜さん。』みぬきは電話口でそう断言していたっけ。基本的に病気をしない王泥喜は、自分の体調不良に疎い。咳も鼻水も出てはいないけれど、そうかもしれないなどと思ってしまう。
 そうすると、風邪…という在り来たりな病名が、自分の中でどれ程の大病であるかのように思えて来るのだ。寝床の側にある卓袱台に鎮座している携帯をちらと見つめて、王泥喜は顔を顰めた。
 聞きたい声がある。会いたい人がいる。何よりも今、側にいてくれたらどれだけ心が安まるだろうと思う。
 そうして、ブルブルと首を横に振った。駄目だ、駄目だ。それだけは譲れない。だって、あの…。

「具合どう? おデコ君。」

 しかし、至近距離から聞こえた有り得ない声に、王泥喜が形相を変えて振り返る。
目の前にいる、コンビニ袋を下げた牙琉検事の姿に絶句した。片手でサングラスを取る仕草が、格好良い。
 …………………じゃなくて!
 そのまま、王泥喜の座っている布団の横に腰を降ろすと、邪魔するよと笑う。
「何回も声掛けたけど、返事がなかったから勝手に上がらせて貰ったよ。鍵掛かってなかったし。あ、これ差し入れのビールとアイス。其処のコンビニで風邪なんだけどって言ったら、薦めてくれたから。」
 どういう取り合わせだ。ガリューに声を掛けられてテンパッたんじゃないだろうか、あの店員。不審な顔で首を傾げていると、ああと微笑んだ。
「お嬢ちゃんが教えてくれたんだ。」
 みぬきちゃん余計な事を。涙が滲みそうな心境で、王泥喜は心配そうに覗き込む男を睨み返した。必死で眉間に力を入れる。
「…帰ってください。」
 掠れたか細い声に、響也が顔を顰めるのがわかった。嬉しいと思う心を叱咤する。グラリと揺れる決心をなんとか引き戻すと、口を開いた。
「こんな、だし、俺…。」
 すと牙琉検事の手がオデコに当てられ、意図はなく其処に熱が集まる。
「ああ、やっぱり少し熱いね。風邪なのかな?」
 医者に行ったかい?等と声を掛け、心配そうに覗き込んでくる表情に触れたくなって、これでもかと頭を振って後ずさった。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。
「と、とにかく帰って…。」
「それは、帰るけど…。でも、ほら差し入れもあるし。」
 帰れを連発している王泥喜に、牙琉検事も不審な表情にかわっていた。
 そうして、目の前にぶら下げられたコンビニ袋。これがある以上、牙琉検事は部屋に居座るだろうと容易に想像がついた。ついた途端、王泥喜は牙琉検事の手から引ったくるようにして奪い取る。
 プルトップを思い切りよく引き抜くと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。液体が通る度にズキズキ痛んだけど、この際我慢。アイスクリームに至っては、小さめのカップだったのを幸いに塊のまま口に放り込む。
 あっけに取られたが牙琉検事の目の前で、ハムスターのようになっている頬を上下させて咽下する。
 空のカップを卓袱台にトンと置き、さあ、食べたぞ。というリアクション。牙琉検事がむっと顔を歪め王泥喜の胸ぐらを掴み上げる。
「どうして、そこまで追い返そうとするんだよ! そんなに僕が鬱陶しいか、王泥喜法介!」
 だぁかぁらぁ、近付いちゃ駄目だろう! イラッときた胸中のままに王泥喜は口を開いた。

「俺の側にいたら、風邪がうつるでしょうが!!」

 王泥喜の大音声に直撃されて、響也は手を放し両耳を手で塞ぐ。
「大声を出さないでおくれよ。鼓膜が破れるじゃないかって…あれ?」
「あ、ああ…あれ?」
 王泥喜も喉に手をやり上下に動かすと、ゴクリと唾を飲んだ。すんなりと喉を通っていく感覚。きょとんと見つめる響也に頷いてみせた。
「もう、喉痛くないです。」
「風邪じゃなくて、何か喉仏に刺さってでもいたのかもしれないね。風邪なら幾らなんでも、治るのが早すぎだよ。」
 くくと笑う響也に、王泥喜は跋が悪そうな表情を向けた。
「俺、本当に病気とかしない方なんで、妙に心配しちゃっただけですよ。」

「…僕の…だろ?」

 直ぐ近くで綺麗な声がした。耳を擽る、ミリオンセラーのボーカリストの声。そう、この声を風邪になんか、自分と同じなんかにさせてなるものかと王泥喜は思ったのだ。
「ありがとう。僕の心配をしてくれてるなんて、思ってもいなかったよ。」
 唇が残した軽い音と共に、額から柔らかな感覚が遠ざかる。
(そんな勿体ない!)王泥喜は、思わず手を差しのべる。床に座り込んだままの響也の腕を引けば、あっさりと胸元に戻ってくる。
 誰が邪魔する訳もない二人きりの自室。腕の中には愛しい人。この、とんでもなく素晴らしいシチュエーションに、王泥喜の思考回路は一瞬で動きを止めた。
 残るものと言えば、本能のみ。

「えと…お願いします。」

 辛うじて残っていた言語中枢をフル回転してみても、そんな言葉しか出てこない。俺ってこれでも弁護士?と自虐的な気持ちが沸き上がりそうになって、返事を待つことなく、今まで自分が寝ていた煎餅布団にゆっくりと押し倒す。
「次はもう少しマシな誘い文句、考えてくれよ?」
 それでも、クスリと笑った相手が瞼を閉じてくれたから、王泥喜は返事の代わりに唇を寄せる。

 学校を終えたみぬきと徘徊に飽きた成歩堂が部屋を覗き、二人分の大音声が響くのは、この直後の出来事だった。

〜fin



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